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激動の時代に発展を遂げた横浜の写真文化

横浜美術館

「横浜[出前]美術館」-都筑区編-

現在、大規模改修工事のため長期休館中の横浜美術館。
お休みのあいだ、横浜美術館の学芸員やエデュケーター(教育普及担当)が美術館をとびだして、レクチャーや創作体験などを市内各地におとどけする「横浜[出前]美術館」!

第8弾は、都筑区の横浜市歴史博物館に、学芸員によるレクチャー「日本写真、事始め〜幕末明治期の写真」をお届け!その様子をレポートします。
そのほか、18区の魅力を発見する「みんなに伝えたい!わたしの街のいいところ」、18区ゆかりの所蔵作品や作家をご紹介する「横浜美術館コレクション×18区」の特集もお楽しみください。

横浜から世界へ発信された「写真」初めて物語

講座名:「日本写真、事始め〜幕末明治期の写真」
開催日時:2022年4月16日(土) 14時~15時30分
開催場所:横浜市歴史博物館
講師:松永真太郎(横浜美術館主席学芸員)
参加人数:73名

今回、会場となったのは、都筑区にある横浜市歴史博物館。
「横浜に生きた人々の生活の歴史」を基本理念として1995(平成7)年に開館。これに則した調査研究、わかりやすい展示、身近な情報の提供、楽しく役立つ講座、市民参加型の体験学習などを実施しています。常設展示室では原始から近現代に至る横浜の歴史・文化の変遷を学べるほか、図書閲覧室、体験学習室、講堂などを備えており、企画展示室では現在「みんなでつなげる鉄道150年–鉄道発祥の地よこはまと沿線の移り変わり–」を開催中です(9月25日[日]まで)。
また、隣接地には、弥生時代の環濠集落と墓地が一体的に発見され、国史跡に指定された「大塚・歳勝土遺跡」を復元整備した「遺跡公園」があります。

講座では、歴史的事象をイメージとして後世に伝えるだけでなく、その存在自体が東西交流の歴史に深く関わり続けた幕末明治期の「写真」をテーマに、横浜美術館のコレクションを参照しながら、その発展をたどりました。

横浜美術館では「近代美術の一分野としての写真の代表作」を収集方針の一つとして掲げており、現在、約4,600点の写真作品を所蔵しています。これは、横浜が「日本の写真興隆期における一大拠点のひとつ」とされているからです。

日本に初めて写真の機材・技術が伝来したのは長崎です。1848年頃には正式に輸入され、薩摩藩主に献上されました。これをもとに研究を重ね、日本人として初めて写真の撮影に成功したのが薩摩藩主・島津斉彬で、1857年のことです。一方、現存する「日本で撮影された最古の写真」は、ペリー艦隊に随行した写真家が、1854年に函館や下田で撮影したものです。横浜が「日本初」の肩書きで写真史に登場するのは、日本初の写真館が開設された1860年なので、「写真発祥の地」を名乗るには分が悪いと感じるかもしれません。けれど、機材等の輸入ボリュームや人材育成など幅広い観点から総合的に判断すると、幕末明治期の横浜は、写真に関する最大の拠点だったといえるでしょう。

現在の写真の源流とされる「ダゲレオタイプ(銀板写真)」の技術は、1839年にフランスで生まれました。当時の写真は全て1点もので、画面の劣化を防ぐためにガラスをはめて密閉し、凝った装丁が施されています。
ダゲレオタイプを用いて、日本で初めて撮影された写真は現在6点が確認されており、そのうち5点が国の重要文化財に指定されています。横浜美術館では、その中の1点、エリファレット・ブラウン・ジュニア《遠藤又左衛門と従者》を所蔵しています。遠藤又左衛門は松前藩の重鎮で、函館の開港交渉にあたった有能な人物だったといわれていますが、注目したいのは彼の着物の衿元。又左衛門のうち合わせは右前ですが、従者たちは逆になっています。ダゲレオタイプでは画像が反転するため、そのことを知らされていた又左衛門は、あらかじめ左右を反転させた装いで撮影に臨んだことが想像されます。ただ、なぜ従者にも伝えなかったのかは謎です。従者たちは飛び入り参加だったのかもしれません。
ペリー艦隊に随行していた写真家としてはこのブラウン・ジュニアが有名ですが、《ペルリ提督横浜上陸の図》を描いた画家ペーター・B.W.ハイネも知られています。


エリファレット・ブラウン・ジュニア《遠藤又左衛門と従者》
1854(嘉永7)年
ダゲレオタイプ h.14.0 × w.10.6 cm 重要文化財
横浜美術館蔵
伝 ペーター・B.W. ハイネ《ペルリ提督横浜上陸の図》
1854(嘉永7/安政元)年以降 h.53.3 × w.80.5 cm
横浜美術館蔵(原範行氏・原會津子氏寄贈)


横浜写真史こぼれ話

日本人を撮影した現存する最古の写真は、これより古く、1851-52年、サンフランシスコで撮影されました。紀伊半島沖で難破した栄力丸の船員がアメリカ船に救助され、サンフランシスコへ渡った際に撮影された写真群で、そのうち亀蔵(COMMETHO)、仙太郎(SIMPACH)の2名の写真が当館に所蔵されています。幸い、後年この二人は共に日本へ帰国しますが、仙太郎はなんと、さきほどお見せしたハイネの絵の黒船に乗っていたのだそうです。当時の日本は鎖国中だったため、アメリカ人を連れて日本に戻ってきたことで処罰されることを恐れた仙太郎はそのままアメリカへ戻ります。そして開国の翌年、1860年に再来日し、ようやく帰国を果たしました。

日本写真の三大開祖として、上野彦馬(1838-1904)、鵜飼玉川(1807-1887)、下岡蓮杖(1823-1914)が挙げられます。下岡蓮杖は、横浜の野毛、ついで弁天通に写真館を開業した「横浜写真の開祖」といえる存在で、門下生からは日本写真史に名を残す著名な写真家が輩出しました。

横浜写真の黎明期に重要な人物として、フェリーチェ・ベアト(ca.1832-1834-1909)は欠かせない存在です。クリミア戦争やアヘン戦争などの戦場を取材したのち、1863年に来日。知遇を得た画家・チャールズ・ワーグマンと共に会社を興し、写真と複製画の製作販売を手掛け「横浜写真」を創始しました。
因みに、横浜美術館で所蔵している《遣欧使節とスフィンクス》を撮影したアントニオ・ベアト(n.d.-ca.1906)は、フェリーチェ・ベアトの兄。その繋がりに関する記録は残っていませんが、ベアト兄弟が日本を介してつながっていることに、奇跡のような縁を感じます。
ベアトは1877年に写真館を閉め、投機や貿易業に携わるも、破産し、1884年に離日。横浜写真は、ベアトの元で写真を学んだライムント・フォン・シュティルフリート(1839-1911)や、彩色技師として働いた日下部金兵衛(1841-1934)らに引き継がれます。その後1873年に来日して横浜で起業したアドルフォ・ファルサーリ(1841-1898)は、日本人写真家の玉村康三郎と提携し、シュティルフリートのスタジオを買収。多くの日本人従業員を雇い入れ、横浜写真は最盛期を迎えます。


日本観光の土産物として人気を博した「横浜写真」

ここで改めて「横浜写真」とは。
日本各地の風物と日本の文化慣習を撮影した鶏卵紙写真に彩色を施した写真の俗称で、外国人旅行者向けの土産物として発展しました。蒔絵や象嵌が施された豪華な装丁の写真帖「横浜写真アルバム」は、当時の写真、絵画、工芸の諸技術の粋を集めた総合芸術といえるでしょう。アルバムに収められた50枚の写真の被写体を順にたどっていくと、上野の桜、日光東照宮、横浜の大通り、鎌倉大仏、江ノ島、京都知恩院、大阪や長崎の風景……というように東京を起点にいったん北上、そして西日本へと地理的な連続性を持っていることがわかり、日本を旅行した気分が味わえる仕立てになっています。横浜港に着いた観光客がまず写真館に立ち寄り、表紙の装丁と収録する写真を選んで発注。日本各地を旅行して離日する際、写真館で完成品を受け取ったと考えられます。日本を海外に紹介するアイテムとして各国の博覧会などにも出品され、ジャポニスム・ブームの一翼を担いました。1880年代に入ると写真技術がさらに発達。その後、ずっと手軽なお土産アイテムである絵葉書が大量生産されるようになったことから、横浜写真アルバムは土産物としての地位を失っていきます。

横浜写真アルバムの撮影者は複数存在し、どの写真が誰の撮影によるものかは、いまだ多くが特定しきれていない状況です。ただし、玉村康三郎に関しては、キャプションの特徴などから、彼の撮影と同定可能なものが多くあります。浅草で写真館を開いた玉村康三郎は、1877年に横浜弁天通に移転して写真館を開設しました。1897年から翌年にかけてボストンで発刊された書籍『JAPAN』(全10冊)には、玉村がプリント・彩色を手がけた写真が多く収載されています。この書籍は、巻頭写真の撮影を小川一真、巻末コラムの執筆を岡倉覚三(天心)が担うなど、外国人から見た日本、ではなく、日本人の視点による日本文化紹介となっている点が注目されます。

幕末から明治にかけては、おそらく横浜が歴史上最も揺れ動いた時期です。国内外のさまざまな人が交流する中で、写真は技術的にも表現的にも発展を遂げました。そこに写されたものには歴史的な価値もあり、当時の社会を読み解く材料としても研究が進められています。外国人の目を通して強調された、やや歪んだ日本の風景も含まれていますが、いまどきのデジタル写真とは異なる「モノ」としての美しさ、味わいがあります。当館の再開館後、遠からずまた展覧会でご紹介したいと考えおりますので、楽しみに待っていてください。

*新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、ガイドラインを遵守した対策を講じた上で実施しています。

▶︎「横浜[出前]美術館」開催予定の講座はこちら

18区の魅力発見! 講座参加者の皆さんにきいた「みんなに伝えたい!わたしの街のいいところ」

横浜のことを知っているのは、よく訪れたり、住んでいる方々!
講座参加者の皆さんの声から都筑区の魅力をご紹介します。

緑豊かで、新しい活気のある街並み広がる都筑区。

●公園が充実している(緑区在住、50代)
●新しい活気のある町(戸塚区在住、70代)
●横浜市歴史博物館がある(神奈川区、50代)
●緑が豊かで遊歩道が充実しているところ。大型商業施設もあるので暮らしやすいです。(都筑区在住、50代)
●緑が多い(鶴見区在住、60代)
●比較的新しく住んでいる人も比較的若く、活動的な地域である(瀬谷区、70代)
●古墳公園がとても良いです。(西区在住、60代)
●整備された環境(都筑区在住、60代)
●ショッピング施設が充実している(南区在住、80代以上)

「横浜美術館コレクション×18区」

当館のコレクション(所蔵作品)の中から、横浜市内18区ゆかりの作品や作家をご紹介します。

ギュスターヴ・クールベ《海岸の竜巻(エトルタ)》
1870年
油彩、カンヴァス、h.65.0 × w.81.0 cm
横浜美術館蔵(坂田武雄氏寄贈)

波しぶきにこめられた、荒ぶる海のエネルギー。
クールベ《海岸の竜巻(エトルタ)》

横浜美術館は、都筑区に本社をおく株式会社サカタのタネの創業者・坂田武雄氏が収集した作品を多く収蔵しています。1913年に横浜で坂田農園(株式会社サカタのタネの前身)を創立して以来、坂田氏は種苗の研究や輸出事業に邁進し、同社を国内大手の種苗会社へと発展させました。実業家として手腕をふるう一方、坂田氏は昭和初期よりフランス近代美術を軸とした西洋美術の収集をはじめます。そして1983年には坂田氏愛蔵の52点が、横浜市に寄贈されました。

ギュスターヴ・クールベ《海岸の竜巻(エトルタ)》もそのうちの1点。この絵では、はげしい筆跡とパレットナイフでカンヴァスに押しつけられた白い絵の具が、暗い画面のなかで際立っています。その粗い絵の具のタッチは、岩場に打ち寄せる波しぶきに物としての存在感を与えているようです。それは、海を舞台に人間の営みを描く伝統的な「海景画」とは一線を画す表現でした。クールベはこの作品で、時間や天気により表情を変える、海の生命力そのものを画面にとどめようとしたのでしょう。

――みなさんもぜひ都筑区を訪れてみてくださいね――

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横浜美術館
みなとみらい21地区の中心に位置する、近現代美術を専門とする美術館。ただいま大規模改修工事のため長期休館中ですが、お休みの間の出来事や、コレクション作品の魅力などをお伝えしていきます。2023年度中の再開館をお楽しみに! https://yokohama.art.museum/