横浜美術館の所蔵作品にみる横浜
「横浜[出前]美術館」–中区編–
現在、大規模改修工事のため長期休館中の横浜美術館。
お休みのあいだ、横浜美術館の学芸員やエデュケーター(教育普及担当)が美術館をとびだして、レクチャーや創作体験などを市内各地におとどけする「横浜[出前]美術館」!
第16弾は、中区の大佛次郎記念館に、エデュケーターによるレクチャー「アートでめぐる横浜の街−中区編−」をお届け!その様子をレポートします。
そのほか、18区の魅力を発見する「みんなに伝えたい!わたしの街のいいところ」、18区ゆかりの所蔵作品や作家をご紹介する「横浜美術館コレクション×18区」の特集もお楽しみください。
明治・大正・昭和初期に描かれた横浜
会場となったのは、中区にある大佛次郎記念館。港の見える丘公園の展望台南側に広がる沈床花壇の奥に建つ、アーチ型の屋根と赤レンガ色の外観が印象的な建物です。小説家・大佛次郎に関する図書や雑誌、直筆原稿、書簡、美術、台本や地図等の関連資料、遺品などを所蔵しているほか、愛猫家であった大佛が所蔵していた猫の置物も多数展示されています。今回のレクチャーは、1階にある会議室で開催しました。
講座では、横浜美術館の所蔵作品を中心に、横浜市中区の街並みを描いていて、かつ大佛と関連のある作家の作品などを紹介しました。
まずはじめは、版画家・川上澄生の版画集『横濱懐古』(1942年)。
第一図《横浜停車場》は、1872年に開業した初代横浜駅(現・桜木町駅)を描いたものです。横浜市中区に生まれた大佛は、初代横浜駅の思い出を、日本経済新聞で連載された「私の履歴書(1964年12月7〜31日)」の中で語っています。
以降、《弁天橋之景》《本町通商館之景》《外国大波止場之景》《神奈川県庁》《谷戸橋之景》《本町町会所之図》《横浜灯台局》《谷戸坂上眺望之図》《吉田橋之景》と全10図を紹介。大佛と同じく横浜に生まれた川上は、自分の生まれる前の文明開化期の横浜に思いを寄せて作品を描いたと考えられます。作品の舞台となった場所はほぼ特定できますが、建物などの多くは1923年の関東大震災で倒壊または焼失してしまったため、現在、作品で描かれた街の面影はほとんど残っていません。それでも記念碑などが立っているところもあるので、機会があればぜひ訪れてみてください。
ちなみに、川上が版画集『横濱懐古』第九図で描いた谷戸坂は、大佛の代表作のひとつ、小説『霧笛』にも登場します。書籍の装丁・挿絵は、随筆家としても活躍した木村荘八が担当しました。
大佛次郎(1897-1973)と川上澄生(1895-1972)には、いくつかの共通点があります。たとえば、ほぼ同時期に文明開化の面影が残る横浜に生まれ、幼いうちに東京へ転居したこと。そうした背景からか、ともに文明開化の横浜をテーマにした作品を多数発表しています。
川上は、1859年に開港した横浜の、異国情緒あふれる風景・風俗を描いた横浜浮世絵に興味を惹かれました。『横濱懐古』にみられる、作品タイトルを入れた帯を画面に配置する構成などに、その影響がうかがえます。
横浜美術館では、川上が作中で描いた地と同じ場所を描いた横浜浮世絵を所蔵しています。
たとえば、現在の「象の鼻パーク」のあたりを描いた歌川(五雲亭)貞秀による《横浜海岸之風景》。また、歌川広重(三代)による《横浜波止場より海岸通異人館之真図》は、ホテルなどが建ち並ぶ現在の山下公園通りが描かれています。彼方には、当時フランス軍が駐屯したことで「フランス山」と呼ばれた、現在の港の見える丘公園北側も描かれています。
続いて、日本画家・中島清之(1899-1989)が描いた全長7メートルにおよぶ大作《関東大震災画巻》をご紹介。
1923年9月1日に発生した関東大震災で、現在の横浜市中区にあった中島の自宅は倒壊。直後に各所で火災が発生し、市街地は焼け野原となってしまいました。中島清之は焼け跡に足を運び、その様子を広範囲にわたって描いています。
中島清之は京都に生まれ、16歳で横浜に転居。会社勤務をしながら、日本画家・松本楓湖の安雅堂画塾に通いました。1924年、院展に初入選。三溪園をつくったことでも知られる原三溪を介して、下村観山らの知己を得ます。1977年より三溪園臨春閣襖絵制作開始。第五室まで完成させますが、1981年、病を得て三男の日本画家・中島千波に襖絵の制作を託しました。
中島は大佛とも交流があり、その愛猫を描いた作品を院展に出品しています。大佛次郎記念館の喫茶「ティールーム霧笛」に展示されている《花に寄る猫》は、横浜美術館で2015年に開催した展覧会「横浜発おもしろい画家:中島清之−日本画の迷宮」に出品されたので、ご覧になった方も多いことでしょう。中島は、中外商業新報(現・日本経済新聞)に連載された大佛の小説「異風黒白記」の挿絵も担当しました。
最後に、洋画家・中西利雄(1900-1948)《横浜風景》をご紹介。
描かれている白い建物は、1932年に建てられたアメリカ領事館です。その跡地では、1979年にザホテルヨコハマが開業し、ザヨコハマノボテルを経て、ホテルモントレ横浜として営業を続けていましたが、2020年に閉館。現在は建替工事中です。
中西は、日本における近代的水彩技法の革新者といわれています。東京に生まれ、1927年に東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業。1948年に毎日新聞に連載された大佛次郎の小説「帰郷」の挿絵を担当しましたが、連載途中で病に倒れてしまいます。その後は、大佛と中西の共通の友人であった洋画家・佐藤敬が挿絵を引き継ぎ、六興出版社から刊行された書籍『帰郷』の表紙も佐藤が担当しました。大佛はそのあとがきで中西への思いをつづっています。
佐藤の作品は、大佛次郎記念館で開催中のテーマ展示「大佛次郎 美術の楽しみ−大佛次郎記念館コレクションより−」で展示中です。(2023年4月16日まで)
今回ご紹介した作品の舞台となった場所は、すべて大佛次郎記念館からほど近いところに点在しているので、訪ね歩いてみるのも楽しいと思います。昨年は、横浜美術館のボランティアによる「横浜美術館コレクションと歩く ヨコハマ・アートウォーク」を、オンラインで開催しました。所蔵作品から横浜の風景を表した作品を取り上げ、作品をじっくり観察したり、描かれた当時と現在の街の写真を見比べ、街の魅力や変化する時代の息吹を感じてみよう、という企画でした。2023年度も開催を予定しておりますので、皆さまのご参加をお待ちしております。
レクチャー終了後は、大佛次郎記念館が所蔵する『帰郷』の書籍や挿絵(複製)を間近に見せていただきました。また、記念館の展示担当、金城職員によるギャラリーツアーを実施。記念館の所蔵作品などもじっくり鑑賞していただきました。
*新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、ガイドラインを遵守した対策を講じた上で実施しています。
18区の魅力発見! 講座参加者の皆さんにきいた「みんなに伝えたい!わたしの街のいいところ」
横浜のことを知っているのは、よく訪れたり、住んでいる方々!
講座参加者の皆さんの声から中区の魅力をご紹介します。
現在と過去の溶け込む、異国情緒を感じられる街。
●山手洋館巡りから元町に降りて山下公園へ向かう散策も楽しいし、馬車道や中華街を美味しいお店を探して歩くのもまた楽しい。歴史的建物が残っているのも魅力(港北区在住、60代)
●歴史と最新のスポットが同居していること(中区在住、60代)
●横浜港を通じて外国の息吹や香りが感じられるところ(磯子区在住、70代)
●異人館や旧外国人居留地区と言った有名な場所以外にも本牧地区にはアメリカ文化を感じられる店がまだ残っており、米軍基地住宅跡などから異国文化を感じられる所がある。また根岸森林公園の競馬場跡の一等馬見所の建物は圧巻だが近年老朽化が進んでいるのでなんとか保存して欲しいと思います。他にも山手駅前の根岸外国人墓地は山手外国人墓地に比べて小さく知名度も低いが戦後日本の歴史の変遷を感じられる貴重な場所であると思う(中区在住、60代)
●現在と過去が適度に溶け込んでいる(戸塚区在住、70代)
●近代日本の歴史の始まりがみえてくる場所だと感じられる事と、新しい今が混在している事(横浜市外在住、60代)
●横浜が開港され、西洋と日本が最初に出会った場所として興味深い(横浜市外在住、60代)
●生まれも育ちも横浜で、曽祖父の時代からこの地なので、他はわからないのですが、祖父母からの昔の話を聞くと、美術などが海外からも入り、昔から文化が栄えていたようです。今は少し観光に力を入れすぎているように感じています(中区在住、50代)
●開港当時の面影と現代の風景が織りなす絵になる街(港南区在住、70代)
●横浜市の中心繁華街で、にぎわい・活気がある。横浜らしい場所(戸塚区在住、60代)
●観光地も多く、交通の便も良く出かけやすい(鶴見区在住、50代)
●根岸森林公園の根岸競馬場の建物、ツタがはって窓のところが目のようで動き出しそうな気配たっぷりで面白いなぁと思いました(神奈川区在住、50代)
「横浜美術館コレクション×18区」
当館のコレクション(所蔵作品)の中から、横浜市内18区ゆかりの作品や作家をご紹介します。
撮るのも撮られるのもひと苦労ー下岡蓮杖《三人の少年》
幕末に現在の横浜市中区野毛で営業写真館をはじめた下岡蓮杖は、名刺判と呼ばれる小さなお土産用の写真を数多く撮影しました。とくに蓮杖が得意としたのは、この写真のような外国人向けの風俗写真です。着物を着た学生らしき少年たちが、キセルや本を手にして写されています。中心にひとり、左右に向かい合わせでふたりの人物を座らせる配置は、蓮杖がしばしば使った写真の構図です。右側の椅子に座る少年の首元には、首押さえ器具の棒らしきものが見られます。当時使われていた湿板写真という技法は、撮影に5秒から15秒ほどの時間を必要としました。そのため、撮影される人の頭が動かないよう、こうした器具で首を固定していたのです。
――みなさんもぜひ中区を訪れてみてくださいね――
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